キリスト教者の描いた悪魔像

12世紀には、フランスのツールーズの宮廷や、スペインのアラゴン王(1197年)、ドイツのフレデリック二世(1224年)などの為政者の手により、また教会では、法王・ルチアス三世、インノセント三世が、それぞれ異教徒を罰するおふれを出している。

13世紀には、グレゴリウス九世が勅令により、異端による堕落に関する糾問として、宗教裁判を設けている。それ以後、教会が告げる教えとは違った考えを持つ者や、教会の教理に合わない行為、ふるまいをする者はこの裁判によって匡正され、それでもなお考えや行為の改まらない者は直ちに死刑を宣告された。この約百年間に、ツールーズでは、宗教裁判により六百人もの人が、新しい魔術を行なった異教徒として焚殺されたという。

こうして「魔術を使う」異教徒の処罰は、宗教裁判官(Inquisitor)の手から手へ、南フランスから、スイス、イタリア、ライン川沿岸の国々へと広まり、あらゆる種類の悪魔つきが処罰されるようになった。15世紀の後半、法王・インノセント八世は。魔女狩り”の勅令を出し、またドミニコ会の僧たちによる(The Malleus Maleficarum=魔女の槌)と題する参考書が配布されるに至って、ヨーロッパに「悪魔の統治」の時代が始まる。

すでに13世紀には、魔王(サタン)ルシフェルには、七百五十万の悪魔がつかえ、魔女や魔術師がいたる所で彼らにつき従い、真夜中から夜明けにかけては、ヨーロッパじゅうの林や森の中で、サバと呼ばれる悪魔たちの会合が開かれると考えられた。

「悪魔を崇拝する者は悪魔にその子供を献じ、犠牲に供するために母の胎内にいる時から子供をサタンに捧げ、またサタンの役に立つすべての人間をひっぱり込むことを約束している。」とアレキサンドル四世がその勅書で述べている。

16世紀をピークとして書かれたおびただしい数の悪魔に関する書物(「不可思議なものについて」1568年、ジャン・ボダンの「デモノマニー」1580年、レミーの「悪魔崇拝」1596年など)には、悪魔のあらゆる行為や邪悪のたくらみの例が一つ一つあげられ、その姿は半獣半人間のもっとも醜い生物として絵に描かれ、悪魔そのものの持つイメージは、この世の中でもっとも醜悪で、もっとも淫扉で、もっとも残忍で、もっともずる賢い、そして救いようもなく冷酷なものの集約であった。