人口の減少と国民の閉塞感

いまわが国は、相互に関係はあるが異質な複数の問題に同時に直面している。このような重い課題が同時に三つも重なってしまったのは、何という間の悪さか。かかる事態を回避する広い視野と果断な実行力が、わが国に欠けていたことが悔やまれる。わが国がこのように三つの重荷に直面しているのだとすれば、不良債権の処理もさることながら、もっと広い視野に立つことなくしてこの事態に出口を見つけることは難しい。

第一のバブルの後始末の問題については、すでに詳しく論じてきた。ここでは現在わが国経済が直面している難局のもっと根深い原因である第二、第三の問題について検討してみたい。日本経済の構造転換という視点は戦後何回か繰り返されてきたことであるが、八〇年代以前と九〇年代以降との違いは、将来の見通しの違いの問題となる。高度成長の時代とは、いま成長しているということよりも、将来も成長が続くという見通しの持てる時代、「将来性を買う時代」であった。将来性を買ったからこそ、地価は収益還元レベルを超えていた。そのうえさらに将来の発展を見込んで地価は上昇した。

それに比して九〇年代になると、「現実を踏まえてその延長線を見つめる時代」になった。最近では国土庁も地価の評価について、従来は売買実例(右肩上がり込み)一本槍だったのを、収益還元方式をも織り込まざるを得なくなっている。それはまさに、このような時代認識の変化を反映している。バブルの修正をはるかに超える地価・株価の下落が続いていることは、今進んでいるプロセスがバブルの崩壊に止まらず、バブル以前から内在した日本経済・社会の軌道修正をも含んでいる証拠である。

このような意識変革の最大の要因は、二十世紀末のわが国が人口の屈折点に差し掛かっていることである。租税負担の増加、年金財政の崩壊など国民の漠然たる将来への不安も、根底には日本の社会が人口減少によって縮小均衡に向かうことを国民が感じているからだろう。わが国の量的な拡大が峠を越えたとの前提に立てば、個人消費・設備投資などの経済活動は知らず知らずの問に大きく変化するに違いない。今まさにそういう変化が日常的に起っている。