LBOとシャング・ボンド

LBOとは、自己資金を一〜二割ほどしか用意せず、買収をもくろんだ相手企業の資産やキャッシュ・フローを担保とする銀行借入れや、シャング・ボンド発行により巨額の買収資金を入手して行なう買収である。

また、相手が巨額の利益源泉をもっている場合はもちろん、相手が多額の繰越し欠損金を抱えている場合は、合併により自社の利益と合算すれば全体として相当の節税になることは買収・合併の誘因(インセンティブ)になることは当然である。

たとえばUSX(USスティールの新社名。商品多角化のため永年の著名な社名であるUSSを新CIに転換した。Xとは未知数の象徴の由である。

もっとも、USXは従来ともNYSE=ニューヨーク証券取引所のUSスティール社の株式取引略号でもあった)はテキサスーオイルーアンドーガス(TXO)やマラソン石油などの高収益法人買収により、抱えていた一九億ドルの繰越し欠損金処理とプレスティージ回復の両目的を節税とからめて達成したというのが実相である。このように節税目的の合併はさすがに米議会でも一時は合法的脱税として問題になったほどである。

人口の減少と国民の閉塞感

いまわが国は、相互に関係はあるが異質な複数の問題に同時に直面している。このような重い課題が同時に三つも重なってしまったのは、何という間の悪さか。かかる事態を回避する広い視野と果断な実行力が、わが国に欠けていたことが悔やまれる。わが国がこのように三つの重荷に直面しているのだとすれば、不良債権の処理もさることながら、もっと広い視野に立つことなくしてこの事態に出口を見つけることは難しい。

第一のバブルの後始末の問題については、すでに詳しく論じてきた。ここでは現在わが国経済が直面している難局のもっと根深い原因である第二、第三の問題について検討してみたい。日本経済の構造転換という視点は戦後何回か繰り返されてきたことであるが、八〇年代以前と九〇年代以降との違いは、将来の見通しの違いの問題となる。高度成長の時代とは、いま成長しているということよりも、将来も成長が続くという見通しの持てる時代、「将来性を買う時代」であった。将来性を買ったからこそ、地価は収益還元レベルを超えていた。そのうえさらに将来の発展を見込んで地価は上昇した。

それに比して九〇年代になると、「現実を踏まえてその延長線を見つめる時代」になった。最近では国土庁も地価の評価について、従来は売買実例(右肩上がり込み)一本槍だったのを、収益還元方式をも織り込まざるを得なくなっている。それはまさに、このような時代認識の変化を反映している。バブルの修正をはるかに超える地価・株価の下落が続いていることは、今進んでいるプロセスがバブルの崩壊に止まらず、バブル以前から内在した日本経済・社会の軌道修正をも含んでいる証拠である。

このような意識変革の最大の要因は、二十世紀末のわが国が人口の屈折点に差し掛かっていることである。租税負担の増加、年金財政の崩壊など国民の漠然たる将来への不安も、根底には日本の社会が人口減少によって縮小均衡に向かうことを国民が感じているからだろう。わが国の量的な拡大が峠を越えたとの前提に立てば、個人消費・設備投資などの経済活動は知らず知らずの問に大きく変化するに違いない。今まさにそういう変化が日常的に起っている。

PKIの壊滅的な打撃

軍と共産党の確執をスカルノという大きな政治的存在が「バランサー」となって、どうにか安定が保たれるというものであった。このバランスを崩すきっかけとなったのが、スカルノの病状悪化である。スカルノの影響力が薄くなるとともに、軍の勢力拡大に危機感をつのらせたPKIが、軍のシンパをも糾合してクーデターの挙にでた。一九六五年のいわゆる「九・三〇事件」がそれである。

このクーデターの失敗により、PKIは壊滅的な打撃を受けた。また、三者間のバランスの崩壊を危惧して、さいごまでPKI擁護の立場をとりつづけたスカルノも威信を失墜させた。そうして、インドネシアの政治舞台におけるほとんど唯一のパワーグループは、軍部のみとなった。この軍部を掌握して。一九六八年に大統領となったのがスハルトである。彼の強権的統治は、以来、現在にいたるまでつづいている。

九・三〇事件後、圧倒的な勢力となった軍部は、行政府の権限を手中に収めた。軍によるインドネシアの行政支配と国家運営がここに開始されたのである。とはいえ、これによって政党政治のスタイルが完全に消え去ったわけではない。スハルトと軍部は、みずからの政治支配の正統性を国内外に訴えるためにも、政党政治の旗をおろすことをしなかった。

しかし、軍部支配に反旗をひるがえす政党の存在は許さず、陰に陽に各政党に圧力を加えた。同時に、旧来の政党以外の親軍部国民集団を組織化して、「ゴルカル」(職能集団)と通称される、国民各層からなる「翼賛組織」を創成し、これを強大な組織とすることに成功した。これが「与党」となって、軍部が掌握する政府を支持する国民的運動の母胎となっていった。

キリスト教者の描いた悪魔像

12世紀には、フランスのツールーズの宮廷や、スペインのアラゴン王(1197年)、ドイツのフレデリック二世(1224年)などの為政者の手により、また教会では、法王・ルチアス三世、インノセント三世が、それぞれ異教徒を罰するおふれを出している。

13世紀には、グレゴリウス九世が勅令により、異端による堕落に関する糾問として、宗教裁判を設けている。それ以後、教会が告げる教えとは違った考えを持つ者や、教会の教理に合わない行為、ふるまいをする者はこの裁判によって匡正され、それでもなお考えや行為の改まらない者は直ちに死刑を宣告された。この約百年間に、ツールーズでは、宗教裁判により六百人もの人が、新しい魔術を行なった異教徒として焚殺されたという。

こうして「魔術を使う」異教徒の処罰は、宗教裁判官(Inquisitor)の手から手へ、南フランスから、スイス、イタリア、ライン川沿岸の国々へと広まり、あらゆる種類の悪魔つきが処罰されるようになった。15世紀の後半、法王・インノセント八世は。魔女狩り”の勅令を出し、またドミニコ会の僧たちによる(The Malleus Maleficarum=魔女の槌)と題する参考書が配布されるに至って、ヨーロッパに「悪魔の統治」の時代が始まる。

すでに13世紀には、魔王(サタン)ルシフェルには、七百五十万の悪魔がつかえ、魔女や魔術師がいたる所で彼らにつき従い、真夜中から夜明けにかけては、ヨーロッパじゅうの林や森の中で、サバと呼ばれる悪魔たちの会合が開かれると考えられた。

「悪魔を崇拝する者は悪魔にその子供を献じ、犠牲に供するために母の胎内にいる時から子供をサタンに捧げ、またサタンの役に立つすべての人間をひっぱり込むことを約束している。」とアレキサンドル四世がその勅書で述べている。

16世紀をピークとして書かれたおびただしい数の悪魔に関する書物(「不可思議なものについて」1568年、ジャン・ボダンの「デモノマニー」1580年、レミーの「悪魔崇拝」1596年など)には、悪魔のあらゆる行為や邪悪のたくらみの例が一つ一つあげられ、その姿は半獣半人間のもっとも醜い生物として絵に描かれ、悪魔そのものの持つイメージは、この世の中でもっとも醜悪で、もっとも淫扉で、もっとも残忍で、もっともずる賢い、そして救いようもなく冷酷なものの集約であった。

電子機械工業全体の生産額の増加

家庭電子機器では、一九九六年にDVDが売り出されて、家庭電子機器市場がさらに膨れ上がるとも見えた。従来の光ディスクの凹凸がさらに微細に加工されて、情報の記憶容量はCDの約七倍になる。そのために音楽ホールでの演奏の臨場感を忠実に再現することも出来る。画像では従来のVHSの二倍以上の解像度があるために画像の鮮明さが増し、さらに特定の音声や音楽だけを大きくしたり小さくしたりすることも可能である。
 
しかしDVDは従来のCDやビデオと競合し、それらの市場を奪いはするが、従来の音楽や画像の市場を新しく飛躍的に拡大するほどのものではない。家庭電子機器の市場が拡大するとすれば、情報スーパーハイウェイの端末としてのパソコン、続いて携帯電話の情報端末の普及が、それに最も貢献するのではないか。
 
この年には、電子機械工業全体の生産額が二四兆円をこえて、自動車および輸送機械工業のそれを約一兆円上回った。この前の年、一九九五年には携帯電話などの移動通信の設備投資額が一兆円をこえ、同年の鉄鋼業のそれを抜いた。一九六〇年代までは、鉄鋼業は日本の高度経済成長の推進軸で、「鉄は国家なり」とさえ言われたものだ。経団連の会長も鉄鋼業界から出るのが当然のように思われていた。しかし今は、その鉄鋼業が携帯電話の風下に立つと見えるほど、時代は変わった。
 
一九九七年に、郵政省の電気通信審議会は、情報通信二一世紀ビジョンを答申したが、それによると、二〇一〇年までの市場規模は、二一四兆円に達すると言う。その内容は、通信サービス、放送サービス、テレビ・ラジオ・パソコン・携帯電話などの端末機器、テレビやラジオなどの番組、ビデオ・CD用の映画その他のソフト、インターネットを介しての情報処理や商品の売上額等々である。アメリカでは、ゴアの情報スーパーハイウェイの構想に見るように、すでにこのような情報通信産業が経済発展の主軸になっており、そのすべてをコンピュータのネ。トワークが結合しつつあるが、日本もまたその後を追うことは確かである。

フィリピンの手術師

フィリピンの手術師こそはまさに現代の呪術師といえよう。また、若者たちの間では、かっこうのよいグループ・サウンズやゴーゴーダンスに熱狂する者も、LSDを飲みシンナーに酔いしれる者もすべて流行という呪術のかっこうのモルモットである。40年程前にはじめて白人に接して、白い毛皮をかぶった幽霊だ、と恐れ叫んだ東ニューギェアの土人たちも、さまざまの国から派遣されるさまざまな文明人からこれから先どんどん感化されることで、自分たちの祖先から伝わる呪術の世界を脱してゆくことは可能であろうが、集団で住むことに慣れた彼らが、個人、個人勝手気ままに生きることを強いられる現代文明社会に入って、強い刺激にうまく耐えてゆけるかどうかは疑問である。

しかし個人主義に徹したかに見える現代人が本能的に志向しているものは、もしかしたら、原始の世界のシャーマエズム的集団支配であるのかもしれない。機械的集団の中の個人であることにつかれはてた時、いつか人は呪術師があらわれて、一人一人の呪いに耳を傾けてぐれる事を待ち望むようになるだろう。

ドルの覇権は限定された金供給ルートによって確立された

アメリカでは自由化推進の旗手として登場した共和党レーガンとブッシュ両大統領だったが、大きな政府がもたらす財政赤字と、輸入超過による経常収支赤字という「双子の赤字」をもたらす結果となってしまった。1980年代前半のドル高によって海外に進出した工場からの逆輸入が激しくなり、経常収支赤字は恒常化した。貿易では、競争力の強い自動車や家電などの日本商品や低賃金を武器にしたアジア商品がアメリカ市場を席巻した。1990年代のアメリカで買い物をしても「メイド・イン・USA」を見つけるのはなかなか難しかったのが筆者の印象に残っている。

アメリカの歴史家ポール・ケネディは「大国の興亡」で、日本経済の隆盛とアメリカの没落を説いた。フランス最大手の保険会社会長職にあったミシェル・アルベールも「資本主義対資本主義」で犯罪に満ちたニューヨークをはじめとするアメリカの大都市を憂い、債務が膨れ上がったアメリカはまるで第三世界のようだと嘆いた。

アメリカのピューリツァー賞受賞記者であるドナルド・バーレットとジェームズ・スティールが「アメリカの没落」で借金漬けのアメリカ企業や家庭を描いたのは1992年だった。同じ年に「オブザーバー」のウィリアム・キーガン編集長は、冷戦が終わって勝利を収めたのは日本だと述べた。わずか数年前までは、多くの著作がアメリカの没落や、日米逆転を説くことに熱心だったのである。

ドルはどのようにして基軸通貨になったのだろうか?まずは1944年のブレトンウッズ協定におけるホワイト案の勝利とケインズ案の敗北に着目すべきだろう。基金原理のホワイト案をもとにIMFは作られ、銀行原理に立ったケインズ案は破れた。世界にいかなるルートで流動性を供給するかを論じた二つのアイディアのうち、ホワイト案が勝利を収めたということは、IMF基金額を上限にしてキャッシュ資金が提供されるということである。

それはアメリカの戦略で、世界がIMFの外枠、つまりはアメリカから直接に借入することを狙ったものだった。逆にケインズは世界が資金難に陥っていた英国がIMFを通して借入することを狙ったのである。英国が直接にアメリカから借入をすれば、アメリカに対する金融的従属を避けられないからである。いずれも母国の覇権をかけた論戦だったということになる。

結果的にはホワイト案の採用により金兌換が可能なのはドルに限定され、その他の通貨はドルを媒介に間接的に金交換ということになった。しかも米財務省に金交換を請求することができるのは海外の公的機関に限られ、民間は除外された。この限定された金供給ルートの確立は言うまでもなく圧倒的なアメリカの金保有と生産力の集中によって可能になったのである。