PKIの壊滅的な打撃

軍と共産党の確執をスカルノという大きな政治的存在が「バランサー」となって、どうにか安定が保たれるというものであった。このバランスを崩すきっかけとなったのが、スカルノの病状悪化である。スカルノの影響力が薄くなるとともに、軍の勢力拡大に危機感をつのらせたPKIが、軍のシンパをも糾合してクーデターの挙にでた。一九六五年のいわゆる「九・三〇事件」がそれである。

このクーデターの失敗により、PKIは壊滅的な打撃を受けた。また、三者間のバランスの崩壊を危惧して、さいごまでPKI擁護の立場をとりつづけたスカルノも威信を失墜させた。そうして、インドネシアの政治舞台におけるほとんど唯一のパワーグループは、軍部のみとなった。この軍部を掌握して。一九六八年に大統領となったのがスハルトである。彼の強権的統治は、以来、現在にいたるまでつづいている。

九・三〇事件後、圧倒的な勢力となった軍部は、行政府の権限を手中に収めた。軍によるインドネシアの行政支配と国家運営がここに開始されたのである。とはいえ、これによって政党政治のスタイルが完全に消え去ったわけではない。スハルトと軍部は、みずからの政治支配の正統性を国内外に訴えるためにも、政党政治の旗をおろすことをしなかった。

しかし、軍部支配に反旗をひるがえす政党の存在は許さず、陰に陽に各政党に圧力を加えた。同時に、旧来の政党以外の親軍部国民集団を組織化して、「ゴルカル」(職能集団)と通称される、国民各層からなる「翼賛組織」を創成し、これを強大な組織とすることに成功した。これが「与党」となって、軍部が掌握する政府を支持する国民的運動の母胎となっていった。