労働力不足経済へ

人口構造の変化がもたらすマクロ経済的な影響の一つは、労働力への影響である。このことを、一五〜六四歳人口の推移でみてみよう。この年齢階層の人口は、「生産年齢人口」と呼ばれる(ここには女性も含まれているので、これが直ちに労働人口になるわけではない。これは、潜在的労働人口である)。この人口は、日本では、これまで一貫して増加しつづけてきた。一九七〇年代以降人口の高齢化が進展してきたが、それにもかかわらず、生産年齢人口の絶対数は増えつづげたのである。つまり、日本経済は、労働力の供給という点では、恵まれた条件下にあった。

実際、戦後の日本経済は、経済全体として構造的な意味での労働力不足に直面したことが一度もなかった。といえば、「高度成長期に人手不足があったではないか」との反論があるかもしれない。しかし、これは、製造業やサービス産業における問題であり、経済全体の問題ではなかったのである。また、地域的にみれば、大都市における問題であった。実際、農業部門や農村部には、膨大な過剰労働力が存在したのである。

したがって、高度成長期を通じて、労働力が農村から大都市に移動した。その結果、経済全体の労働需給はバランスした。最近では、八〇年代後半のバブル経済の時期に、人手不足の問題が発生した。とくに、建設業などではこれが深刻な問題となった。これを背景として、外国人労働者流入も生じた。しかし、この状況も、一時的な性格が強かった。

人口高齢化の進展によって、労働力をめぐる条件は、今後急速に変化する。これをいま少し詳しくみょう。総務庁統計局が発表した九六年一〇月現在の推計人口によると、生産年齢人口は、九五年より約一〇万人減少した。これは、日本経済が初めて経験した現象である。一四歳以下の人口は一五年間連続で減少しているため、生産年齢人口の減少は、今後も続くと考えられる。実際、社会保障・人口問題研究所の予測によると、日本の生産年齢人口は、二〇二〇年には約七三〇〇万人となり、一九九六年の約八七〇〇万人に比べて一四〇〇万人も減少する。二〇五〇年には約五四〇〇万人と、現在の六割程度にまで減少する。これは、驚くべき減少といわざるをえない。

国民協議会本会議の席上

一方、ゴルカル側では別の動きが進行していた。夕刻のゴルカル議員団会議では、ウゴフント擁立を図るハビビ派議員の牽制を押し切る形で、アクバル副大統領擁立が決定された。その後、アクバルはギナンジャルとともに大統領官邸を訪れ、アクバル副大統領を望むというグスードゥルの意思を確認したと言われる。もし事実ならば、グスードゥルは二枚舌を操ったことになる。

副大統領立候補受け付け締切時間の夜一〇時半までに、国会事務局には、アクバル、ハムザーハズ、ウゴフントの三人の書類が提出された。アクバルはゴルカル議員団(形式上は全議員一八二人の総意)、ハムザーハズは開発統一党議員団、ウィラントはイスラム信徒連合会派九議員とゴルカルのハビビ派議員七四人の連署によるものであった。メガワティの立候補書類はまだ届いていなかったが、民族覚醒党議員団から電話で書類提出準備中の連絡が入りアミン議長の了承のもとにこれが受理された。

民族覚醒党幹部の必死の説得により、二一日午前○時半にメガワティがようやく立候補書類に署名した。しかし、各種書類がすべて整い国会事務局に提出されたのは、夜が明けてからであったと言われる。二一日午前七時半、ゴルカル内の結束の乱れを理由に、副大統領候補を辞退するむねの連絡がアクバルからグスードゥルに入った。他方グスードゥルは、腹心の民族覚醒党幹部に命じて、ウゴフント邸を訪れ立候補辞退の説得に当たらせた。また、ムリアーホテル宿泊中の改革会派議員にもグスードゥルや民族覚醒党幹部から電話が入り、メガワティ副大統領実現に協力するよう要請が行われたという。午前一〇時にはウゴフント側からメガワティ側に接触があり、自身の立候補辞退と国軍・警察会派のメガワティ支持が確約されたという情報もある。

同じ午前一〇時、国民協議会本会議の席上、アミン議長が副大統領選投票の前に各会派協議のため一時休会を宣言した。議事堂の内外で各種のロビ上工作が続けられたあと、正午すぎ本会議が再開された。ゴルカルのアクバル党首が発言を求めて起立し、立候補辞退の意思を表明した。苦渋の表情のアクバルの背中を、隣の席のマルズキ議員団長がやはり起立して手を添え支えていた。

次いで、やはり立候補辞退を表明したウゴフントの宣誓書をアミン議長が代読し、ふたたび休会が宣言された。副大統領選出を協議による全会一致(ムシャワラ)によるのか票決によるのかをめぐり、各会派間の調整を行うためである。午後にふたたび議事が再開されると、冒頭ハムザーハズ党首みずからが、開発統一党は同党首の立候補を撤回しないむねアミン議長に通告した。かくして、メガワティの希望に反して、副大統領選の投票が二候補の間で行われることになった。結果は、三九六票を集めたメガワティが二八四票のハムザーハズに圧勝した(他に棄権が五票)。

戦争への動員にいかに抗するか

武力攻撃事態法は、「有事三法案」の一つとして二〇〇三年に成立した。翌二〇〇四年、「国民保護法」「特定公共施設利用法」「米軍支援法」などからなる「有事七法」が加わった。その成立により、戦時法と自治・人権破壊法としての色彩はさらに濃厚なものとなった。国民保護法には、「武力攻撃事態等」という包括的な三類型の下で、政府の「地方公共団体」や「指定公共機関」(民間企業)に対する指示権が規定され、都道府県・市町村は住民の避難計画や訓練実施を義務づけられた。それらは地震や災害にそなえる防災計画や訓練として実体的にはすでに存在・整備されているにもかかわらずである。目的はただ一つ、武力攻撃事態「等」に含まれる、海外での戦争が「予測されるに至った」段階から、また、アメリカから「周辺事態協力」が要請された時点から、地域と企業を動員することにあるのは明白である。

とはいえ、憲法第二章「戦争の放棄」、第三章「国民の権利及び義務」、第八章「地方自治」は、なお存在している。一片の法律によって憲法秩序を根だやしにすることはできない。そこに権威と信頼をよせる自治体、労働組合、そして個人もたくさんいる。たとえば神戸市の場合、入港する外国の軍艦は核兵器が積まれていないと証明する文書を提出しなければ神戸港に入港できないとする「非核条例」をもっている。成立した一九七五年以降、神戸港アメリカの軍艦は一隻も入っていない。一地方自治体でも憲法条例制定権を活用すれば、これだけのことができる。苫小牧市も二〇〇二年「非核条例」を制定した。こうした動きが全国に広がれば、海外での戦争に協力を強いる政府命令に強力な武器となる。

また全国一三〇〇以上の自治体が「非核宣言」や「平和宣言」を採択した実績も、政府は無視できないだろう。そこには戦争協力に反対する住民の意思が反映しているはずである。「非核・平和宣言」は、政府の意のままに岸壁、空港、体育館、公民館、公立病院を使わせないための意思表示になる。被爆体験や空襲体験を語りっぎ、記憶しつづける活動も、憲法がけっして現実にそぐわないや、理想の産物でないことを教えてくれるだろう。有事法制の危険性について、自分の仕事とのかかわりから危機感と反対意見を表明する人もいる。二〇〇二年二月二日付の『朝日新聞』「声」欄に国際線の機長の発言が載った。

「米国の同時多発テロ東シナ海での不審船事件を契機に、今国会で有事法制を成立させる動きが高まっています。日ごろ諸外国で発生する事件や戦争、テロ、ハイジャックなどに翻弄される危険が高い私のような国際線のパイロットは強い関心を持っています。九九年に成立した周辺事態法は、周辺事態の際、地方自治体や民間へ軍事協力を求めるものでした。ところが今度の法律は協力ではなく強制で、罰則規定が検討されていると言われています。民間航空機による軍事輸送は、明らかに国際民間航空条約に違反するもので、運航の安全は保障されません。つまり国際法上、民間機が軍用機とみなされるということになります。

そうなれば、日本の民間機の運行が敵対行為とみなされ、今以上に乗員も乗客の方も、テロやハイジャックの危険にさらされることになるでしょう。有事法制は民間のパイロットにとっては徴兵そのもの。威勢のいい政策より、平和憲法を生かした外交こそ政府の役目です。私は民間航空のパイロットですから、罰則があっても軍事輸送はしません。」こうした考えは、ひとりパイロットだけではなく、海上輸送に従事する海員組合の人たちにも共有されている。港湾労働者にも同じような危機感がある。自衛隊が海外で戦争に参加すれば、隊員とともに船員や港湾労働者に海外業務の従事命令がくるのはまちがいないからだ。朝鮮戦争ベトナム戦争では商船乗組員も戦争に巻きこまれた。

会社に逆らえず、引きこもってしまう活力なき若者

その結果、「生活保護よりも低い」とさえ言われる給料しかもらえないドライバーも出現する可能性が出ている。つまり、タクシー業界には人手不足になるだけの理由はあるということである。タクシー運転手の最低賃金を上げるなり、タクシー会社や経営者の収益構造を変えない限り、人手不足は解消しない。このような業界事情を考えると、「派遣を切られたら、文句を言わずにタクシー運転手になればいいだろう」というのは乱暴な理屈であることもわかる。確かに、生活保護に依存せず自助努力をすることは重要である。

しかし、人手不足の業界の体質を改善しないままに、国家総動員的に人材を右から左へと強制的に動かすだけでは、すべてのしわ寄せを労働者に押し付けているにすぎない。人手不足になる要因には政府の失敗も絡んでいる。例えば、医師・介護など役所が需給コントロールしているような業界がそうだ。医師不足が叫ばれて久しいが、未だに医師の絶対数が不足しているのか、医師が偏在していてミスマッチが生じているだけなのか、その理由がよくわからない。仮に医師の絶対数が不足しているのであれば、大学医学部の定員を大幅に増加すれば、将来的に医師不足が解消されるはずだが、厚労省が抜本的な解決策を提示しているとは思えない。

類似した話としては、博士号を取得したにもかかわらず、大学教員になれないなど「高学歴ワーキングプア」として問題となった大学業界もそうである。大学院博士課程を設置している大学院数、「博士号を出す」という文科省及び大学業界全体の方針、博士号を取得する人数、大学教員のポスト数、定年が遅いためポストが空かないという業界事情などを考えれば、大学教員の雇用のミスマッチが起こるのは極めて当然である。

最後は、求められる能力を満たす人が少ないという業界だ。特殊な技術・技能を求められるような世界のことで、一部の高度なIT技術者はそうである。この場合、人手不足になっている要因をどこに求めるのかは難しい。高度な技術を身につけようと努力しない若者などが悪いのか、求められる専門能力を供給できる教育機関・訓練機関が存在しないことが問題なのか、求められる能力・技術を具体的に提示しない会社の問題なのかなど、はっきりしないことが多い。

人口減少・高失業率社会の原因は企業だけではない。労働者にも問題はある。確かに、働き過ぎでうつ病になる正社員は多いが、その一方で、給料に見合う働きをしていないにもかかわらず、手厚い終身雇用で守られている中高年正社員は非常に多い。大企業の中高年正社員のホワイトカラーはものすごい給料を得ているだけでなく、まず解雇されることもない。そんな特権の裏返しとして、企業は採用抑制によって人件費を抑制せざるを得ないため、前途ある若者が犠牲になっている。

国営企業の自主権の拡大

大学の重要な決定は上部機関−教育部や石油工業部や冶金工業部等々に上げられ、そこでまた各レベルの行政組織の会議の決定と党委員会の批准とがくりかえされるのである。企業の場合も同じようなものであろう。行政と経営との分離とは、このような党委員会の批准を廃止するか、大幅に減らすかという問題をも含んでいたのである。趙紫陽はそれを要求したのであった。それが中国の多くの共産党員から強い反発を受けたであろうことは、想像にかたくない。と言うのは、たとえばハルビンの場合、従業員一万人規模の工場であれば、党委員会、労働組合、青年共産同盟などの専従者が、二〇〇人から三〇〇人も存在しており、それぞれ企業から給料を受け取っていたからである。
 
なかでも党委員会は、末端の職場から、最高幹部のレベルまでピラミッド状に構成されていて、それぞれのレベルでの批准という任務の軽重に応じて、給料を受けとっていたに違いない。その任務がなくなれば、専従党員を企業内に置く必要はない。つまり、肩で風を切っていた党員が、企業を追われることになる。労組や青共を含めて専従者は三〇人ぐらいに激減すると、ハルビンでは言われた。公式には、趙紫陽は、天安門動乱の処理のまずさで解任されたのであるが、彼が性急に各種の専従党員の大幅減員を要求したことで、多くの党員の支持を失っていたことが遠因だったのではないかと、私は想像する。しかし、中国共産党の首脳部が、企業における行政と経営との分離を放擲したわけではない。天安門動乱の後、彼らは国営企業の自主権の拡大は政治的に避けられないと、強く自覚したであろう。そして、いくつもの法律をつくり、行政指導をかさね、党員の意識改革をはかると同時に、中国官僚主義の本拠である国務院の改革をも射程に入れた。

グローバル・ナンバーワンを目指す

「空調事業のグローバル・ナンバーワンを目指す夢を皆さんと共有したい」。2006年8月、ハワイ・オアフ島に集まった、当社とOYL社グループの幹部約100人に私は熱く語りかけた。一度は白紙になりかけたギリギリの交渉の末、当社か空調機大手の米マッケイ社などを傘下に持つOYLインダストリーズ(マレーシア)の買収を決議したのはこの年の5月。両社幹部が初めて一堂に会する会合をマレーシアではなく、日本でもない第三国で開いたのは、対等の立場で夢の実現への一歩を踏み出す会合にするためだった。買収金額は2461億円。世界最大の空調市場を持つ北米を攻略し、世界首位の米キャリア社を追撃する。OYL社は北米に事業基盤があり、中国、アジア、欧州にも生産拠点を構える。大型空調機と周辺のサービス、メンテナンス、低価格の空調機などが得意分野だ。高性能の空調機に強い当社と補完関係を築き、シナジー効果を高めるには最適な相手だと言える。

私はハワイ会合でOYL社の自主性を尊重すると明言し、お互いの違いを認め合い、良さを尊重し合って飛躍しようと呼びかけた。そうすればお互いの長所を生かし、短所を補い合える。相手の話を真剣に聞く仕組み作りも提案した。グローバルな競争を勝ち抜くには異質で多彩な人材を生かす経営姿勢か大切だ。終日の会議だけではなく、3日間の日程にゴルフ、観光やパーティーも組み込んで当社の従業員が自ら手作りでもてなした。OYL社の皆さんも大いに胸襟を開き、ともにがんばる気持ちになってくれたのではないか。参加した一人ひとりが結びつき、信頼関係を醸成できたと思う。ハワイ会合に大きな驚きと感動を覚えたという手紙がその後、日本にたくさん届いた。

財務省・ウォール街複合体

アジア通貨危機のはらむ問題を、あらためてアメリカを中心とするマネー循環の回路のなかで捉えなおしてみると、皮肉なことに、日本発のマネーがアメリカを経由してアジアに環流し、通貨供給量を膨張させたあげくの「危機」であったという事実に突き当たる。

ヘッジ・ファンド自体が、もとをただせば日本の異常な低金利を活用して、投機資金を調達しているのである。著名な投機家ジョージ・ソロス氏が、日本開発銀行にまで融資を打診したという話も伝えられている。

さらに重要なことは、アメリカの政治力がこうした投機筋の動きを支援したという以下の経緯であろう。1997年の春にヘッジ・ファンドが動き始め、パーツへの売り投機を開始したとき、タイ政府はパーツの空売りを締め上げる作戦に出ようとした。

ヘッジ・ファンドが空売りしたパーツを買い支えて、ヘッジ・ファンドが高値で買い戻さざるを得ないようにしむけたのである。こうしたタイ政府の市場への干渉に、市場の論理をふりかざして立ちはだかったのがルービン財務長官であった。

アジアの経済危機に関連して、アジア的なクローニー・キャピタリズム(仲間内資本主義)の問題が、米系のメディアを中心に大きくクローズ・アップされた。しかし、ここで注意を払わなくてはならないのは、そうした特殊アジア的な資本主義と1997年の通貨危機とのあいだに、何ら直接的な関連はなかったということである。

降ってわいたようなアジア通貨危機の原因を、この地域の旧来からの経済社会体質に求めるのは、明らかな論点のすり替えである。むしろ、ルーピン財務長官の、いかにもウォール街らしい市場観が大きくものを言う、現代の資本移動の問題点にこそ目を向けるべきであろう。

ドイツ銀行の資料によると、ASEAN4ヵ国と韓国をめぐる民間資金の流出入額は、1996年には930億ドルの流入であったものが、翌1997年には210億ドルの流出に転じており、この動きは5ヵ国のGDPの10%にも相当するという。

かくも急激な資金の流出入があっては、どんな国の経済システムも自らを維持することは難しい。ここ20年来のシンボル経済化の流れのなかでは、投機的資金の動き一つで容易に一国の経済が破壊される。そうであるならば、こうした資金を味方につけることも、これからは経済戦略の一環として重視されることになるであろう。

アジア経済危機の教訓は、じつはそこにとどまらない。IMFという国際機関が、それ自体、ドル基軸体制を前提として機能しているという現実も見逃してはならないだろう。タイの通貨危機に関してルーピン財務長官の取ったスタンスは、結果的にタイ経済をIMFの傘下に導くものであった。

コロンビア大学国際経済学者、ジャグディッシュ・バグワティ教授は、「フォーリン・アフェアーズ」1998年5、6月号で、かつてアイゼンハワー政権が警告した「軍産複合体」に代わって、現在は「財務省ウォール街複合体」が国際金融を取り仕切っていることを批判している。同じ思考回路を持つエリートが、ウォール街から財務省国務省、さらにはIMF、世銀といった国際機関の主要ポストを動き回り、「ウォール街・スタンダード」を推進している光景が浮かんでくる。

1997年の危機にあたって、タイ、韓国はIMFの傘下に入り、インドネシアではその圧力のもと、スハルト長期政権が倒れた。そしてその一方で、これら東アジア、東南アジア各国では、アメリカ系資本による現地資本の「底値買い」が進んでいる。

業種的には携帯電話などの情報通信関連、建設・不動産関連などが、新たに米系資本の傘下に入ろうとしている。非アジア系企業によるアジア(日本を含む6ヵ国)地域・企業の買収は、1998年上期に120億ドルと、前期比3.5倍のペースである(采調査会社「セキュリティーズ・データ」による)。

アジア経済の破綻は、円高攻勢を逃れて形成された日本経済のフロンティアの崩壊を意味する。日本もまた、アジア諸国と同様、アメリカの実質的コントロール下で経済の再建をはからねばならない、少なくともアメリカはそう認識しているということである。

なぜ、このような現実を迎えなければならなかったのか。円高対応という守りの選択ではあったが、対アジアの直接投資は、本来は円圏成立のための基礎的条件を醸成するはずであった。ところが、アジアが実質ドル圏であるために、日本の投資はかえって日本経済をドル圏に深く組み入れる結果となっている。

ここで想起されるのが、1980年代、マレーシアのマハティール首相が提唱したEAEC(East Asian Economic Caucus)構想である。この「東アジア経済協力体」構想は、当時、アジアにおける円経済圏への展望を示したものとして注目された。

こうした動きが実を結んでいれば、EAECの域内では、1997年のような危機は回避され、円基軸の安定した投融資の恩恵を日本も域内国も、ともに享受できたはずである。また、そうした円経済圏を背景としてはじめて、日本は円の対ドル・レートを相対的に安定させ、世界最大の債権国としての本来的な対外投資を継続することができたのではないかと思われる。

しかし、この構想は、日本がASEANアメリカの板挟みにあうなかで頓挫した。円経済圏の創出は、アメリカの死活的利害に関わるため、べー力ー国務長官が宮澤首相に強力な圧力をかけてこれを断念させたのである。

EAECは太平洋を分断する、APECアジア太平洋経済協力閣僚会議)こそが双方の利益にかなう、これが一貫したアメリカの立場であった。APECは、もともと日本の通産省がオーストラリアと組んで実現したものだが、すでにアメリカのコントロール下にある。