国営企業の自主権の拡大

大学の重要な決定は上部機関−教育部や石油工業部や冶金工業部等々に上げられ、そこでまた各レベルの行政組織の会議の決定と党委員会の批准とがくりかえされるのである。企業の場合も同じようなものであろう。行政と経営との分離とは、このような党委員会の批准を廃止するか、大幅に減らすかという問題をも含んでいたのである。趙紫陽はそれを要求したのであった。それが中国の多くの共産党員から強い反発を受けたであろうことは、想像にかたくない。と言うのは、たとえばハルビンの場合、従業員一万人規模の工場であれば、党委員会、労働組合、青年共産同盟などの専従者が、二〇〇人から三〇〇人も存在しており、それぞれ企業から給料を受け取っていたからである。
 
なかでも党委員会は、末端の職場から、最高幹部のレベルまでピラミッド状に構成されていて、それぞれのレベルでの批准という任務の軽重に応じて、給料を受けとっていたに違いない。その任務がなくなれば、専従党員を企業内に置く必要はない。つまり、肩で風を切っていた党員が、企業を追われることになる。労組や青共を含めて専従者は三〇人ぐらいに激減すると、ハルビンでは言われた。公式には、趙紫陽は、天安門動乱の処理のまずさで解任されたのであるが、彼が性急に各種の専従党員の大幅減員を要求したことで、多くの党員の支持を失っていたことが遠因だったのではないかと、私は想像する。しかし、中国共産党の首脳部が、企業における行政と経営との分離を放擲したわけではない。天安門動乱の後、彼らは国営企業の自主権の拡大は政治的に避けられないと、強く自覚したであろう。そして、いくつもの法律をつくり、行政指導をかさね、党員の意識改革をはかると同時に、中国官僚主義の本拠である国務院の改革をも射程に入れた。