ドルの覇権は限定された金供給ルートによって確立された

アメリカでは自由化推進の旗手として登場した共和党レーガンとブッシュ両大統領だったが、大きな政府がもたらす財政赤字と、輸入超過による経常収支赤字という「双子の赤字」をもたらす結果となってしまった。1980年代前半のドル高によって海外に進出した工場からの逆輸入が激しくなり、経常収支赤字は恒常化した。貿易では、競争力の強い自動車や家電などの日本商品や低賃金を武器にしたアジア商品がアメリカ市場を席巻した。1990年代のアメリカで買い物をしても「メイド・イン・USA」を見つけるのはなかなか難しかったのが筆者の印象に残っている。

アメリカの歴史家ポール・ケネディは「大国の興亡」で、日本経済の隆盛とアメリカの没落を説いた。フランス最大手の保険会社会長職にあったミシェル・アルベールも「資本主義対資本主義」で犯罪に満ちたニューヨークをはじめとするアメリカの大都市を憂い、債務が膨れ上がったアメリカはまるで第三世界のようだと嘆いた。

アメリカのピューリツァー賞受賞記者であるドナルド・バーレットとジェームズ・スティールが「アメリカの没落」で借金漬けのアメリカ企業や家庭を描いたのは1992年だった。同じ年に「オブザーバー」のウィリアム・キーガン編集長は、冷戦が終わって勝利を収めたのは日本だと述べた。わずか数年前までは、多くの著作がアメリカの没落や、日米逆転を説くことに熱心だったのである。

ドルはどのようにして基軸通貨になったのだろうか?まずは1944年のブレトンウッズ協定におけるホワイト案の勝利とケインズ案の敗北に着目すべきだろう。基金原理のホワイト案をもとにIMFは作られ、銀行原理に立ったケインズ案は破れた。世界にいかなるルートで流動性を供給するかを論じた二つのアイディアのうち、ホワイト案が勝利を収めたということは、IMF基金額を上限にしてキャッシュ資金が提供されるということである。

それはアメリカの戦略で、世界がIMFの外枠、つまりはアメリカから直接に借入することを狙ったものだった。逆にケインズは世界が資金難に陥っていた英国がIMFを通して借入することを狙ったのである。英国が直接にアメリカから借入をすれば、アメリカに対する金融的従属を避けられないからである。いずれも母国の覇権をかけた論戦だったということになる。

結果的にはホワイト案の採用により金兌換が可能なのはドルに限定され、その他の通貨はドルを媒介に間接的に金交換ということになった。しかも米財務省に金交換を請求することができるのは海外の公的機関に限られ、民間は除外された。この限定された金供給ルートの確立は言うまでもなく圧倒的なアメリカの金保有と生産力の集中によって可能になったのである。