「文化」が持つさまざまな意味

「はじめに」でも触れましたように二一世紀へ入った現在、「文化」という問題が改めて大きく浮上し、これからの世界を考える上で重要な現象となっています。その背景には、前世紀の九〇年代初めに起きた東西冷戦の解消という、画期的な世界政治の変化がありました。

八〇年代まではイデオロギしが非常に大きな役割を果たしていて、ソ連・東欧諸国等の社会主義的、共産主義イデオロギーと、アメリカに代表されるいわゆる西側の資本主義的、自由主義的なイデオロギーとがぶっかりあっていたのですが、それは、ある意味で二〇世紀が生み出した二つの型の普遍主義の対立であり、人類と世界の普遍性をどこに求めるかという思想的な競争の現れであったということができます。世界政治の上では、大局的に見てのことではありますが、たとえばソ連と一括された地域のようなさまざまな国家や社会と文化、あるいはさまざまな民族や宗教を含打地域であっても、社会主義イデオロギーの大前提のもとに、それぞれの地域や文化の違いは、社会主義という守るべき大前提の中に少なくとも表面的には吸収されてしまっていました。

それに対抗して西側の自由主義諸国においても、大きな意味での西欧的な自由主義と民主主義という普遍主義を看板として立てて行く、そしてその看板のもとで「文化の違い」を政治問題とはしないという暗黙の前提をもって、各国各地域が行動をするという現実がありました。つまり、東西いずれの側でも大前提としての普遍主義があって、その中でそれぞれの文化の違いはあまり意味がないということに「建前」としてなっていたのです。

しかし、東西冷戦構造が崩壊し、ソ連という大きな普遍的な共同体が解体しますと、そこに再び文化の違いが「政治問題」として現れてきました。東西冷戦下では一つの共同体であった地域に、ロシアとか中央アジア諸国とかバルト三国とか、さまざまなところで地域に根ざしたそれぞれの本来の「文化」が強く意識され主張されるようになったからです。その文化の違トの中には、宗教とか民族、言語の違い、生活様式の違いが含まれています。また東欧諸国などもそれぞれの文化が違うということを改めて言い出して、チェコスてハキアは、民族や文化、言語の違トからチェコスロバキアとトう二つの国に分かれてしまいました。

またユーゴスラヴィアでは社会主義という大きな枠が崩れると民族問題、宗教問題、言語の違いなどがでへんに噴き出して、ご承知のように、ボスニアコソボの紛争はいうにおよばず、これまでの国や社会が大きく分裂してしまいました。つまりそれらの地域や国々では、文化というファクタしが政治、経済的なファクターと同じぐらいに大きなものとして立ち現れてきたわけです。

こうしたポスト東西冷戦下の状況は、文化を専門としてきた私の立場から言いますと、政治や経済を円滑に運ぶためにも文化が無視できない、文化をうまく理解して対処しないと政治や経済も動かない、という状態になったことを意味しています。換言すれば、イデオロギーではなく文化という切り口で世界を理解するということが、二〇世紀の最後の一〇年で大きな主題になってきたと言えるでしょう。そして、これはまさに二一世紀の世界と人類がかかえる最も大きな問題の一つであります。もちろん実際には、政治問題もあれば、経済問題もあるのですが、従来はどちらかといえば政治は政治、経済は経済という独立したファクターとして考えていけばすむとされていたものが、政治も文化だし、経済も文化的なファクターを無視しではやっていけないことが明らかになってきたということなのです。

イデオロギーから文化へということが二〇世紀の最後にいたって大きな課題になったというのは、ある意味では文化というものが「政治化」したことでもあると思います。文化というファクターが全世界的な規模でこれほど政治的に意味を持つような時代は、これまでなかったのではないでしょうか。