産婦の緊張が解けるようなアットホームな雰囲気

このような分娩方法において、親がリラックスできること、スタッフとの人間関係が確立できること、問題点をある程度理解できること、などの利点があり、利用者の満足度はきわめて高く、多くの家族は分け合った経験が人生を豊かにし、家族をより密接な間柄にした(講演抄録集)と、その新しい試みが大変良好な実績をあげていることを伝えた。この講演以後、分娩室を、冷たく無味乾燥で手術室のような雰囲気から産婦の緊張が解けるようなアットホームな雰囲気へと変える試みが、日本でも、産婦の心身の安定と安産とのつながりに深い関心を寄せる産科医たちによって、取入れられ始めている。

同じ頃、一般の人々に伝えられた情報に「水中出産」がある。これは、フランスのミッシェル・オダンが女性の心身を解放し、その生死に合った、自然でしかも主体的なお産の一つとして紹介したものである。この方法は医療行為として、出産が管理されることを最高のものとしていた当時の人々に腿はらせるような衝撃を与えた。つまり出産にに訂いては衛心的に感染症を防ぐことを至上命題としてきたのに、彼は、ぬるま湯の中につかってのお産などという方法を奨励したからである。リハイキンは大丈夫?赤ちゃんはにおぼれないの?。

しかし昔から入浴は、痛みを沈静化させ生理作用を促進させるために利用されて来た方法で、陣痛が弱く長びいた時などに伝統的な知恵としてよく利用されたこと、また風呂につかると体験的にも心がゆったりとくつろげること、さらに赤ちゃんはお腹の中では羊水につかっていることなど、水中出産の安全性が徐々に明らかになると、その理論に共鳴し、とくに出産を自分で管理できる能力を持っていたり、人的ネットワークをもつ助産婦や女性医師たちが、水中出産を取り入れた。

彼はこの方法の紹介によって一躍有名になり、日本でも少々出産について模索したことのある女性なら、「女性の上体的なお産を可能にしてくれる産科医」、「自然出産の救世主的存在」として彼の名を知らない者はいないくらいである。しかし日本の女性たちの心に与えた影響は、彼の伝えた出産方法そのものよりも、その出産方法の基本にある、心身を解放してお産にのぞめば、身休がちゃんと自分で安産してくれるという思想の方が、しかもそれを男性産科医が伝えたことの意義の方が、計り知れないほど大きかったと私は思う。「身体にきけばわかる」という彼の語録は、「自然出産の合言葉」のように、当時の医療管理出産でひどい目にあっていた女性や、そのやり方に不満を感じていた女性たちの間に広まった。

一九六〇年代後半から七〇年代における日本の出産状況は実際、一九六〇年代後半から七〇年代における出産への医療管理はひどいものであった。新たに開発された陣痛誘発剤やガス麻酔など人工的な産科枝術が、それはどの危険性も顧慮されずに投俘されたし、身休にとっての安全基準やより苦痛の少ない使用法などについて、その後真剣に研究が積み重ねられたとも言いがたい状態のまま、産婦の身体に使われた時代であった。