貿易摩擦からバブル経済へ

日本経済を回復させたのは、円安による輸出の伸びであった。この頃、アメリカでは、一九八一年に成立したレーガン政権のもと、「強いアメリカ」「小さな政府」を掲げて、大減税を行うとともに、社会保障費を削り、軍事予算を大幅に増やすという偏った政策運営を行っていた。その結果、膨大な財政赤字の垂れ流しとなった。しかも、FRB連邦準備銀行アメリカの中央銀行で日本の日銀に当たる)は、物価抑制のためにマネーサプライを抑えるという金融政策をとったため、ドル高となり、貿易赤字も膨らんだ。後の章で説明するが、減税もマネーサプライの抑制も、通貨高を招く政策なのである。財政赤字の埋め合わせは、国債によって賄うしかなく、アメリカは債権国から債務国に一気に転落すると、対外債務を急速に増やし始めたのである。


おかげで日本の輸出は伸び、日本経済は回復するのだが、次第に貿易摩擦の問題がクローズアップされるようになる。アメリカは日本に圧力をかけて金融自由化を行わせる。しかし、それでもドル高の流れが変わらなかったため、一九八五年のプラザ合意において、円高に誘導することを日本に受け入れさせる。合意内容は、一ドル二百四十円から、二百十四〜二百十八円に誘導するというものであった。ところが、実際には、予想を超えたドルの急落が起きてしまう。翌年には百六十円、翌々年には百二十円まで、一気に円高が進む。日銀は公定歩合を5%から2・5%まで段階的に下げて金融緩和を行った。さらに、政府も緊急経済対策として、五兆円規模の財政出動を行い、内需拡大政策を打ち出したのである。


しかし、円高が急速に進んだ一九八六、八七年でさえも、日本の実質GDP成長率は3%前後を確保していた。この頃の日本経済は非常に強かったのである。さらに、金融緩和の効果もあって、円高水準が続いているにもかかわらず、八七年夏から急速に景気が回復し始める。自殺者の数も徐々に下がり、九〇年には、二万人余りにまで減少したのである。金融自由化の影響で企業の資金調達が容易になり、貸出先に苦慮した銀行は、ノンバンクや不動産向けの融資を活発化させる。低金利内需拡大に金融自由化という三つの条件が重なって、バブルを生むことになる。本来ならば、日銀が金利を引き上げるなり、マネーサプライを絞るなりして、経済の過熱を防ぐべきだったのだが、マネーサプライは増え続け、公定歩合も2・5%に据え置かれたままだっだ。経済の状況を完全に見損ない、引き締めのタイミングを逸してしまったのである。


オイルショック後には、あれほど高金利を維持した日銀が、バブルの時には、金融引き締めになかなか動かなかった理由としては、消費者物価がそれほど上かっていなかったことがある。土地や株という資産に、金が向かっていたのである。また、一九八七年にアメリカで株が大暴落するというブラックマンデーが起き、その余韻があったということもあるだろう。景気が過熱するとともに、土地や株式は異常なまでに高騰を続けた。膨らみ過ぎたバブルは、早晩破裂する運命にあった。ようやく日銀が公定歩合の引き上げに動いたのは、バブルも末期の八九年五月からである。


十二月には、4・25%まで引き上げられる。十二月末の大納会で、日経平均株価は三万八千九百十五円の史上最高値をつけたのをピークに、一九九〇年の年明けから下降し始めていたが、日銀は、さらに公定歩合を上げて金融引き締めを強化した。同年三月には、大蔵省からの通達「土地関連融資の抑制について」により、いわゆる土地融資に対して総量規制が行われた。政府の主導による「バブル退治」が開始されたのである。八月には、公定歩合が6%まで引き上げられる。株価は、その年十月には、二万円を割る水準にまで暴落した。それでも、その年一杯は、5%前後の経済成長を確保していた。それを支えていたのは、旺盛な個人消費であった。だが、九〇年秋頃から、ついに地価も下落に転じるとともに、翌九一年二月、四年三か月にわたったバブル景気は、終わりを迎えるのである。