インドは英国政府の直轄で運営される

インドでは、このようなアクバルービルバルのジョークがとても人気がある。ちょっと寄り道したが、息子のジャパンキールの自伝によると、アクバルの帝国では祈りの自由があった。ヒンドゥー教徒はもちろん、イスラム教徒のスンニ派シーア派ユダヤ教徒キリスト教徒、それぞれが自分の祈りの場で祈りを捧げる自由があったという。ラージャスターンのラニーを助けたフマーユーン王と、アクバル王の文化的自由の戦略が、ムガル帝国のインドでの定着の理由とも言われている。アクバルの時代の標準語(政府の言葉)はペルシャ語と、ペルシャ語の影響を受けて現地のヒンディーを改善した方言のウルドゥーだった。アクバルの孫のジャー・ジャハーンは1628年から1658年まで帝王となり、世界的に有名なタージーマハルを作らせた。ジャー・ジャハーンの息子のアウラングゼブは王としては悪くなかったのだが、趣味はインド人全員をイスラム人にすることだうた! 従って、国民と昔の州の王たちからは相当恨みを買うことになった。

中でもマハーラーシュトラのシヴァージー王は、アウラングゼーブに反乱を起こして、インドの英雄になった。シヴァージーをはじめ全国で抵抗勢力が勃興したこともありい17世紀の終わり頃にはムガル帝国は崩壊寸前となっていた。西からのイスラム教徒の侵略と、デリーで確立されたムガル帝国に反抗するように、北西にあったパンジャーブ州では15世紀の終わり頃、クルーナーナクによってシーク教が生まれた。17世紀には、ムガル帝国が弱っていくにつれ、シーク教が強くなっていき、パンジャーブ州北インド領土のかなりの部分を支配した。イギリス東インド会社を経て分割独立まで1757年に、初めてベンガル州の運営をムガル帝国からアウトソーシングされたことをきっかけに、イギリス東インド会社が、同様にインドを乗っ取ろうとしていたフランス軍ポルトガル軍とオランダ軍に勝ち、徐々にインド全体を支配することになる(現在でも、南インドのポンティチェリーはフランス、西のゴアはポルトガルの支配地であったことが街並みや生活習慣などからはっきりと見てとれる)。

インドが英国支配地になっていくプロセスがいかに速やかだったかを、皮肉、ウィットと一種の悲しみを持って表現した文学としては、ヒンディーの有名な作家・プレームチャンドが書いたストーリーをサタジットーレイ監督が映画化した『チェスをする人』(1977年)と、ヒンディーのもう一人の有名な作家、バグワティーチャランーヴァルマーが書いたストーリー『ムガル王達がインド帝国をチップにして揚げちゃった』が代表的である。イギリス東インド会社に対して行なわれた1857年の独立運動も、歴史上の大きな出来事である。この運動で何人かのインドの王が力を集結し、インドの大部分を英国人から取り戻した。ただし、運営戦略が不十分で、デリーにはムガル帝王のバハードゥルーシャー2世を立てたが、その後あまりよくフォローできなかったことや、密通者が出たこともあり、結果的には英国に負けた。これをきっかけに、イギリス東インド会社は解散され、インドは英国政府の直轄で運営されることになった。

1857年独立運動のリーダーの一人に、インドのジャンヌータルクと呼ばれるシャンシーの女王ラクシュミーバーイーがいた。彼女は13歳の時にマッデアプラディシュ州のシャンシーの国王と結婚して女王となった。しかし、1853年に夫が亡くなったため、英国は「責任者がいない地域は英国の領地になる」という当時の英国の法律に従い、シャンシーを明け渡すよう彼女に迫った。18歳だった彼女は、「私はシャンシーを渡しません」と勇気を持って宣言した。英国の進攻から2度はシャンシーを守ることができたが、結局1858年3月に英国は軍隊を3度派遣、2週間でシャンシーを勝ち取った。彼女は男性の服を着て5歳の息子をおぶい、馬に乗って逃げた。独立運動の仲間、グワリアの豪族であったタテヤートーペ (TATYA TOPE)にかくまわれたが、数力月後グワリア城も侵略されたので、それを守るために必死で戦った。

戦況が悪化したため再び彼女は子供をおぶって馬に乗り、ジャッグルへ逃げた。英国軍が追跡していたので、何日間を食事もせずに逃げ回っていたが、このまま二人で逃げ延びるのは厳しいと判断し、結局彼女は子供をジャングルで出会うた男性に預けて、一人で戦い続けるにした。数日後、彼女は英国人に撃たれて死んだが、馬は彼女を乗せて子供預けた所に戻ってきたので、そこで埋葬された。(英国の発表によると、撃たれた後で彼女が自分で火に飛び込んだことになっている)。当時の英国司令官ローズは、女王は独立運動のリーダーたちの中で一番勇気あるリーダーと賞賛した。享年22歳だった。数日後にグワリアの城も落ち、間もなく独立運動全体が鎮圧された。シャンシーのラニー(女王)ラクシュミーバーイーは、1857年のインドの独立運動だけではなく、今もインドの愛国心のシンボルとなっている。