大学淘汰の時代

一九八〇年代初頭に、アメリカでも青年人口の減少と大学進学率の停滞のために学生数が減少するという予想が盛んに行なわれた。連邦政府や州政府の高等教育予算の削減によって、奨学金や研究のための資金の入手もだんだん苦しくなってきた。その結果少ながらぬ数の大学が閉鎖、倒産、合併の運命をまぬがれないとする、″大学淘汰の時代″の到来が叫ばれるようになってきた。そこでこれからの厳しい時代に大学はどうやって生き残ったらいいかという問題を討論するための大学関係者の会議が盛んに開かれるようになり、この本の編者のレヴィンもその種の会議に出席した。そのとき、会議に来ていた一人の自動車会社の役員が次のような趣旨の意見を述べたという。

われわれの自動車産業もどこか間違っている、どこかがおかしいということを長いこと感じていて、この種の会議をしょっちゅうデトロイトで開いていた。しかしどこが悪いのか、何が本当の問題かということがどうしてもはっきり捉えられなかった。ところで当時の自動車産業が当面していた状況と照らし合わせてみると、どうも今のアメリカの高等教育もかつての自動車産業とそっくりの状況にあると思えてならない。

大学関係者は、今、学生数の減少とか高等教育予算の削減とか大学の資金が少なくなるとかいうことをしきりに心配している。それはもっともなことだが、しかしながらそんなことよりももっとファンダメンタルな問題を大学はかかえているのではないかと敢えて私は言いたい。つまり自動車産業と大学が当面している問題は、驚くほど似かよっているのだ。そして、その問題こそがアメリカの自動車産業を没落させたものであり。その同じ問題こそがアメリカの高等教育にも同じような没落をもたらす可能性があるのではないかと私は考える。

この自動車会社の役員の話を聞いたとたん、レヴィン学長は″ぞっとするような″ショックをうけたという。なぜならアメリカの自動車産業が数年前に直面していた状況は、今のアメリカ高等教育の状況にもそっくりあてはまるではないか、と彼も直感したからである。

それでは世界一のアメリカの自動車産業と、これまた世界に冠たる(と多くのアメリカ人が強い自信を抱いている)アメリカの高等教育を、ともに解体せしめかねないファンダメンタルな問題とは、一体何なのか。モの自動車会社の役員は、それが何であるのかをこれ以上語っていない。ここでの意図は、大学という社会制度の生成淘汰の条件を、歴史と比較の観点から追求しつつ、この問いの意味するものを解いてみることにある。