帝国主義パワーポリティックスの中の朝鮮

閔妃暗殺、朝鮮王朝末期の国母』角田房子新潮社石器、長坂覚氏の名著『隣の国で考えたこと』(一九八〇年、日本経済新聞社)の中に、金大中事件の際、これを韓国政府による主権侵害だとする議論が日本でわきおこったのをみて、韓国のある要人が氏に「他の国の主権を侵害するのは悪いことだということを、日本がやっとわかったのは良いことではないか」と語ったというくだりがある。閔妃暗殺に象徴されるおぞましいいくつもの事件を忘れていない韓国人が、そういう心情を吐露したとして不思議はない。

閔妃暗殺とは、三国干渉の後、急速に対露接近を強めた朝鮮宮廷の外交路線を暴力的に変更させるべく、宮廷意思の中枢にあった李朝二十六代の国王高宗の正妃閔妃を、駐韓公使三浦梧楼の組織する日本人が殺害した一九〇五年の事件のことである。日本の軍人、警察隊、ソウル在住民間人など数十名が暁の景福宮を襲い、顔もさだかではない閔妃を求めて女官を日本刀で斬りまくり、死体の中から閔妃をようやく発見し、宮廷の庭で焼き払ったという蛮行である。

本書は、この閔妃暗殺事件の全容ならびに朝鮮宮廷を取り巻く帝国主義列強のパワーポリティックスの非情な姿を、綿密な取材と克明な資料分析によって描きだしている。取材と資料によって明らかにされた断片的な事実を、著者の想像力によって因果的につなぎ合わせ、閔妃暗殺をカダストロープとする迫真の日韓併合前史をつくり上げている。

著者は、ふとしたきっかけで池上本門寺に眠る岡本柳之助の墓に出合い、この人物への強い関心を呼び覚まされる。岡本は、二・二六事件とならんで陸軍の反逆事件として知られる竹橋事件連座して軍人要職を追われ、その後いくだの来歴を経て朝鮮宮廷と日本をつなぐ陰の人物となり、ついには閔妃暗殺事件で主導的な役割を演じるにいたった男である。

本書の節目に登場して、舞台を暗転させる役割を担う裏の主人公がこの岡本である。岡本は、実は陸奥宗光と同郷であり、陸奥に終始目をかけられた男であった。少年期に始まる二人の関係から考えて、陸奥閔妃暗殺の計画を事前に知らされており、なおそれを傍観したのではないかという推量を著者は提示している。やりきれない事件である。誰よりもやりきれなかったのは、著者自身であったにちがいない。順罪と自虐の想念に悩まされながら、しかし冷静な歴史認識への意思を失わない著者の筆致が感動的である。